昭和46年1月13日 朝の御理解
御神誡 一、口に真を語りつつ心に真のなきこと。
(併)御神誡 一、真の道におりながら真の道をふまぬこと。
御理解第40節「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信 心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい」
そのためにはこの真の道を分からしてもらう、真の道を踏んで行く。幼児形という生活からしか生まれてこないと思うんです。その、おー、一つ前の御神誡の中に「真の道におりながら真の道をふまぬこと」というのがあります。「口に真を語りつつ心に真のなきこと」という事を戒めておる訳ですね。こんなことであってはならないぞと、だからそうしようとこの心がけますけれども、まずだから心がける、うー、という事は、まず真の道を知らなければならない。まず真の道を知ったら行じて行かなければならない。そこからね自ずと口と心が一つになって精進されることになってくる。言うなら、あの人の言う事は間違いがない。それぐらいな事になってくるんじゃないでしょうか。あーもう苦情ばっかり、言うような人がありますよね。うん、行いが伴わないからですよ。ね、だからそれとてもです、例えば信心の場合は少し違うと思うんです。ね、いわゆる真の道におりながら真の道をふんで行きよらなければそこから自ずと出てくるもの、そこから自ずと発せられるもの。いわゆる心と口とが一つ、しかもそれが信心であるという事。ですからそこにはいっつもね答えが出ておる。ね、自分だけではなくてその衆の者もおかげを受けるという結果になってくる。ね、どんなに例えば本当の事を言うておってもです。それがやはり行の上で現せてなかったり、えー、自分のものになっていない事をとくとくとして、まあ口に出しましても、それは、ああー、そらそうだと分かってもです皆が有り難い物にしてくれない。私は今日ここのところを頂かしてもろうて、えー、この御神誡、まあ、いつも繰り返して頂くところですけれども、今日はどういうような面でおかげを頂いただろうかと思うた、御理解の方を頂いたら御理解40節、いわゆる「信心は楽じゃ」と「家業を勤め勤めするがよい」と。ね、言わば楽な信心という事は、うーん、ああー、間違えないようにしなければならない。ね。まあ寝ながら拝んどこうと言ったような信心、そういう意味じゃない。ね。だから例えば、そのー、日常生活の中に一つの、何と言うか高いところから低いところへ水が流れるように、言わばスムーズにです。その、行けれる道を習得する事、体得する事。そこにはね、えー、言わば信心は難しいというもんじゃないということになってくるんです。えー、今朝から私はお夢を頂いたんですけどもね、それはまあせからしい夢なんです。後先ちょっと忘れた、先の方をちょっと忘れましたけれども、私がこう山道になる、こう道を歩いておる。そしてそこが、道がカギの手にこうように曲がっておるんですよね。だから私はここを、カギの手の方へ曲がった方へ道の方へこう行って、ああー、曲がって歩いておりましたら、後ろからね、それこそ猪が走ってやってくるんですよ。そしてその猪がですね、大勢おる彼等の方の道の方がほんのこつじゃろうしから(笑い)。物言うわけです。そしてですねその私がカギの手へ曲がった方へこう曲がってからそこを通りぬけるというようなお夢でした。私は猪じゃけん、夢の中でね猪ちゅうのは初めて見たと心の中で思いよるようなお夢でした。ね、猪というのは、えー、例えば猪武者などと申しますね、前には進んで後ろの方にはひく事を知らないとか、もうとにかく何があってもがむしゃらに一番陣前の方へ突き進んで行くといったような、ああー、まあ直情型の存在を猪武者とこう申しますよね。信心さして頂く時にも、この猪信心という方がおりますよね。もうこれをほんのことと思うたらもう誰が何と言うたってそこをもう真っ直ぐに、その、行く事が真っ直ぐに道を歩く事のように思うておるんです。私はねそういう事じゃないと思うんです。ね、「天地に道あり」と仰るがその「天地に道あり」という、その道を歩けばね(いうてきとなるという?)おかげにならなければだめなんです。天地の大道を喝破さしてもらうならばね、それの答えとしてです。死ぬ気の事が整うて行くというおかげが伴わなかったらだめなんです。自分で自分なりにこれが本当だ。真っ直ぐい道だというてがむしゃらに、例えば道があるのにですよ、田んぼん中で(なんでこうやってつっきこたやって?)感じになりますよ。この辺のところがね、信心を頂かないと分からない。私の言うこと本のこと、なるほどがむしゃらになって行っておかげを受けますね。ったらその勢いでやはりおかげ受けますけれども自分は非常にきつい。(やるのだかんの期間なんですよまっすぐいっとっと?)ね、例えば車で行く道をです、真っ直ぐ行くと言うてから、久留米から合楽から一心をひいてです、それを行ってごらんなさい。田んぼの中やら、ねテーブルやらば歩いていかんならんことです。やはり久留米には久留米に行く道がちゃーんとあるのです。場合にゃあ曲がっとる所もありゃあ、ね、その、おー、様々な、あー、その道、天地の道もそうなんです。それを歩かして頂くのが直ぐいのです。信心さして頂く者はね、うーん、変人になれと、「変人とは直ぐいことぞ」と、こう仰る。だからその変人ぶりを変な意味合いにおいての変人ぶりになりますと、いわゆるその猪信心になってしまいます。または猪型になります。ね、猪はひく事も知らない、ね、根は(?)のごとある。ね。自分はちゃんと隠れとるとじゃから黙っときゃ分からんという、ああー、自分の事悪口言われおってから、腹立てかけて、そいでやられる(笑い)。ね、だからまわりが隠れとかなければならんとこまでは、曲がってあるかならんとこもある。とにかくその道をね、辿らして頂く。しかもその天地の道を歩かして頂くということには必ずよりて整うというおかげが頂けれる。だから私がお夢ん中で頂いた、その、おー、猪君のですね、大体は猪はもう真っ直ぐしか行かんと、けども親先生が先に行くことあるけん。しかも(かにくが?)でこう曲がったから、親先生の方へ行きゃあ万歳はなかろうというてその猪がこうやって(笑い)くるくる回って行くところを頂いた。そういう事じゃないかと思うんです。そこでやはりその道というのが習得されなければならないという事。ね、しかもそれが間違っておるかいないかをです。言うならば石橋を叩いて渡るような慎重さを持って、行かなければならんことはもちろんです。だから信心も引いたり、足したり、かけたり、割ったりと。これは私は20年も前に頂いた御教えです。信心をさして頂いて足してみた。ね、ね、これは本当だと思って足してみたら果たして合うておるであろうかと一遍引いてみなきゃいけん。ここで割ってみたら、ねこれは本当の事であろうかとそれを確かめてみるために、かけてみなければ分からん。これは私は皆さんに申し上げたい事ですけどもね、私はもう日々がもう絶対そういう道を歩いておると思うんです。でなかったら前には進まんです。いわゆる直情型です。いわゆる猪型で、これが本当だという事をただまっしぐらに進むという訳ではない。進んでみたらそれを確かめてみる。ね、この答えが合うておるか合うていないかという事を確かめるためには、引いたら足してみる、割ったらかけてみるというようにして答えを確かめながら(いんしん?)していくという生き方。そこに人間(ぼんぼ?)のですね、私は間違いのない生き方を探し求め追求して行くと言う、ね、神様でない身ですから分からんのです。自分がこれが本当だと思っておっても、違っておるかもしれん。あら?これはおかしいぞと。ね、ちょっと気付かせて頂いたならばそこで一つ計算をしてみる。そして、また間違いのないみ道に出らして頂くという、そういう生き方。今日、御祈念中に、いー、頂きました事はね、無料でする修行、買ってする修行と頂いた。何の事かさっぱり分からん。私もちょうど「口に真を語りつつこころに真のなきこと」という事を頂いたが、果たしてこれとどのような風に繋がっているどろうかと。無料でする修行、買ってする修行。ね、今、御理解40節を引用致しました。「信心は楽じゃが家業を勤め勤めするがよい」という、うー、信心は楽なんだと楽だと仰られる。例えば、あのー、楽なと言う事は、寝て拝むといったような意味ではないと言う事を申しましたようにですね、私はそのー、私の言わば生き方なんだ。ね、合っておるか合っていないかを確かめながら、ね、行かせて頂くところにゆとりと安らぎがある。間違いない道を、人は何と言うても間違いのない道を歩いているんだなという、そういう意味なんです「楽」なと言う事は。はあー、一生懸命やっていきよるが自分が間違っておらんやろうかとびくびくして、すまんでよいという事なんです。ね、そういう生き方の中にです、また、ここでもいわゆる、私のまあ独断上の言われておるところの成り行きを大事にするという事。ね、成り行きを大事にして行く修行。はあ、これ無料でする修行とはこういう事だなあと思った。元がいらんもんね。自分自身に起きて来る全ての事柄をです、それを神様の御事柄として、それを合掌して受けていく。中には嫌な事もある。損になるような事になるかも知れん。恥ずかしい思いをする事があるかも知れん。けれどもここに、自分のところにそういう自体が起きておる事だけは事実なのだから、これを合掌して受けて行くとこういう事なんです。ね、その時にはもう、それこそ馬鹿に辛い時がある。けれども、ね、今こそ、ね、先日頂いた御理解の中にもあったように、はあ、今こそ金光様、金光様とこう頂いていきよる内にです。ね。言わば、あの納豆ができておるようなものだというようなあの御理解を頂いたんです。そういう生き方なんです。だからこうやって無料でできる修行、自然が私に求める修行を、只、合掌して受けて行こうという気迫。はあ、無料で済む修行とはこういう修行であろうかと、私は思うた。ところが買ってする修行とは、どうしても分からんかった。買わしてもらう事。例えば私ここんところを頂いてから思ったんですけれども、うーん、買ってする修行とはね、自分が求めてする修行。ね、言わばその御用を私が駆って出ると言ったような事を申しましょう?ね、いわゆる自分が求めてする修行、言うならば皆さんこうやって朝の御祈念に、ね、お参りをされ、これなんかは、いわゆる買ってなさっておられる修行なんです。ね、そこでその買ってする修行と無料でする修行とは相まっていかなければいけないと。私はそこんところにね信心のもう限りない楽しさをいつも感じます。素晴らしい事だなあ天地の働きの一分一厘間違いのない事よと思います。ね、そこでです、例えばその無料でする修行、成り行きを大事に尊ばして頂くという修行が楽な事ばかりではない。今言うように納豆でも作る時のようにです。ずーっとそれをこらえにこらえて行かなければならないような事もあるけれどもです、ね、そこんところをです私どもは買ってする修行。ひと修行さして頂くという朝参りもさして頂こうかというような元気な心が出てまいりますとね、その事が楽にではなくてもう有り難く受けていけれるという事です、無料でする修行が。私はもう合楽の信心はね、もうある意味でここに極まったという感じがするんです、いつも。ね、だから真の信心とはそれを真の信心と言うのだと。だから今日の御理解から言うと「真の道におりながら真の道をふまぬこと」というように、誡めておられるけれどもこの生き方を持ってするなら真の道を踏み外すことがないと私は確信を持ちますね。無料でする修行、買ってする修行が相まって出来ていくならば、ね、必ず答えが出てくる。いわゆる寄りて整うという全ての事が整うて行くというおかげになって行く。不金庫の物は金庫になって行くだろう、金銭の難儀をしておる者は金銭のお繰り合わせを受けるであろう。どいう複雑な人間関係でありましてもです、寄りて整うて行くほどしのおかげに必ずなって来る。もしなって来ないならです、いわゆるここで反省さして頂くべきだという事になるのです。ね、なるほど「重い物を担いでおる」のではない、ね、かろうておるだけではない。ね、から、「信心は楽じゃ」と言う風に仰っておられるように、そういう生き方を体得するところにです、信心はありがたいものである、いわゆる得するような生活とでも申しましょうか、徳を積み上げて行く賀びがね、私の日々の生活をありがたいものにしていく訳なのです。なるほどこうなってまいりますとね、「口で真を語りつつ、心に真のなきこと」なんかという事なんかはそういう風に誡めてありますけれども、そんな事は出てこない。もうそれこそ純真無垢、自分が心の中に思うておる事をですね、それが信心で、いわゆる心の中に生まれて来る事ですから、あのー、おー、出てくる訳です、ね。ああ言って騙してやろうかとかね、あれを、おー、一つ陥れてやろうと言ったようなね、そういう策略なんかがこん中に生まれて来るはずもない。昨日です、昨日でした。えー、ちょうどお食事を、おー、「純生?」さん高橋さんと左右で頂かせて頂きながらです。漬物が出てきたんです。たくわん、やま塩、それから奈良漬が出てまいりました。そら珍しいまあ、奈良漬だから(どげしたかじゃろうかいっちょおいしかな?)だからどっから誰がって来たかと言うたら「純生?」おっちゃんが畑から持って来たとこういう訳です(笑い)。たくあんもそうです、やま塩もそうです。(?)のところがしばーしばしていっちょんおいしくなかもん。もうこげな、こげなもんが奈良漬と思うとるじゃろうかと私は言いました。(かげなかぎがおっちゃまえであるから?)口に混ざって、口と心が同じ事を言いよる。ほんで私がですね、おー、これは「純生?」さん、ちいーっとこの奈良漬はおいしかのんとちゅうなら、「口に真を語り心に真のなきこと」でしょうが。ね、だからもう厳しい事もですよ、皆さん。いかがに(?)抜かしてから、あんたそげんふうないっちょうまい事言うてから(笑い)、しから私は言いますけれども、ほんなことじゃなか。で、たくあんを食べた。たくあんからはおいしかったけん、「純生?」さん、こんたくあんなら持って来たってよかばってん、こげな、これはあんた奈良漬けと思とんのと言うた。あんまりむしむししすぎとるけん奈良、(?)がしばーしばする。そして(?)ばしばすっとるじゃけんがみそ漬じゃなんか分からん事あるですよ。(笑い)。私はね「口に真を語りつつ心に真のなきこと」っちゅうことはそれだと思うんですよ。それでですね「純生?」さんがもし腹かきなさるならばこれはおかしいですよ。わた、それは私の言うた事がおかしい。ね。ところが「純生?」さんはそれを、まあ「純生?」さんの、ああー、腹かきなさらんけん言うたっちゅう訳でもないですけれども、ね、私はそういう事が本当に言えれる世の中が、にしていきたいですね。家庭の中でも。ほんなこつですね。仮想しました皆様じゃけん、ほんのこと、なるほどこれは(おもしのしようが?)ありますしねって習うような気持ちになったら、もうぜーんぜんないとです。ほんのこと言いよる。ね、だからこれがです、私がですね、大体ホンなら、その、おー、なんちゅうんですか、あのー、悪口を言う人の事を、ああー、申しましょうがいろいろ。ね、いわゆる口が悪いと。けれども本当の事を言うておっても、お前が何を言いよるかと。失礼な事を言うなと、相手が腹かくような内容ではそれは言えないという事。自分の心に確信を持たないと言える事じゃないという事。ね、甘いものは甘い、辛いものは辛いとです、言えれる世の中、ね。それが一つも障らない、それが向上する事のために、よりおかげを頂く事のためにだけしかならないというような、私は世の中の、おー、在り方がですね、ならして頂く世の中を祈るものです。ですからまず自分の心の中から、それを頂いてかなきゃならん。こういうような場合がありますよね。例えばなら今日、たくさんの人が100名なら100名が集まっておるといたしましょう。その100名がね、やはり同じ神様の氏子には間違いないけれども、ね、顔形が違うようにやはり心の状態も違うのです。生場生活も違うのです。だからね、同し事では助からんのです。ね、あそこに、なら末永さんがおるから末永さんに説く事の横に佐野さんがおるなら佐野さんの横に同し事ではいけんのです。その人その人の、言わば持ち味というのがある。その持ち味を引き出す事のために私は苦心しなければならんと思います。ね、食べ物でもそうでしょ、ね。マヨネーズをかける事によって、その持っておる味が非常に引き立つ、引き出す事になってまいりましょう。ね、昨日、えー、美登里会の新年会でしたから、いろいろごちそう出てきておりました。その中にです、どれを一つこう取り替えてみてもいかんのですよ。ね。例えば昨日(すがき?)が出ておりました。おろしと酢醤油がかけておる、これはもうこれでよかよかと言うてマヨネーズをかけてみたらどうでしょう。(すがき?)いが死んでしまいますよね。と言うてね、えー、アスパラが出ておりました、洋食の物が出て来て、ね。それに、ならこの、うー、醤油でよかっちゅうて醤油かけたらアスパラの味がないでしょうが。アスパラをいよいよおいしく頂くためにはやはり、マヨネーズならマヨネーズでなければいけない。トンカツが出ていた。トンカツにはやはりトンカツソースでなからなければおいしゅうない。もうよかよかこれは、ああー、味噌を漬けとけにゃあいかんです、言うなら。やっぱりもうそれが一番最高に味を引き出させる物が必要なのです。ね、ですから、ああ、親先生がどうもあの人は、ちと人間見らっしゃるばい。この人には、えー、えらい物言いしからこの人にゃあいっちょん何も言わっしゃらん場合はやっぱりありますよ。なら、そういう時に「口に真を語りつつ」とこれは私の限界なのですけれど、ね。「心に真のなきこと」というようなふうに見らないで欲しい訳なんです。ね。まあそげん言わんでお茶を飲んで行きなさいという人もおる。かと言うてまあだこれだけたくさん参って来る人でいっぺんでさあ裏に入ってお茶でもあがんなさらんか全然ない人がほとんどなんです、ここでは。だから、先生が(とうの?)話す時はもうえらい(むごしごなる?)。と言うようなふうに思うて、ね、この人にはお茶を出したほうが、その人の、言わば味を出す事ができるか、お茶を出す事が。この人にそげな事しよっとおかげを落とすからお茶を出さんだけなのかなあ、そしてから反対に(しおどふかくになる、しおどふかくかけた?)ほうが味がでるでこの人は。ならここでだから皆さんの場合で言うてもです、今日の御理解で言うても。ね。同じ子供でも同じように扱わんでしょうが。ね、それを同じ扱いをしようとするのならば、それは実を言うたらおかしい。ね、もう何もかにもが(よううれたるようなもんですよ?)ね、これにはマヨネーズがよい、これには醤油がよい。これはもう生醤油がよい、いやそれにはもうちっとピリっときかせるわさびになっとり醤油なったりを入れた方がよかというのがありましょうが。ね、だからここは百人百様と。私は今日のここのところの御理解を引用さして頂いてのそれでなからなければいけないということ。ね、それを間違えますとですね、私はもう兄弟を自由に扱いよるっちゅう人がある。例えば子供なら子供で。ね、甘いものを食べさせりゃあ良い者がおるかもしれん辛いものが良い者がおるかもしれん、それは辛いものには辛いものを与え、甘い物を良い者には甘いものを与えていく、それが親心じゃなかろうか。ね、言うなら、そう、そう、例えば親がしてもです。家の親は不公平はなし、もう自分達を思うてくれとる事は同じだと子供から思われる内容を頂きたいというのです。私は皆さんにお茶を出す人もありゃ、お茶をいっぺんでも出した事もないという人も沢山あるわ。ね、それでいてです、親先生の生き方、なされ方が間違いがないと皆さんが信じて下さらなければならない、また、信じられる私でなからなければならないという事なのである。それは猪武者のような人であっても親先生がかぎの手に曲がられたから親先生のい出らる方が間違いがなかろうと、そこを回ってくるようなおかげを頂かなければならない。それを昔から私はね「着いて行きなされ、このちょうちんに、決して苦労はさせはせん」という事なんです。ね、それをここで親先生任せとこう言う。ね、そういう生き方をです、私どもがさせて頂いて行くのでございますけれども、今日の「口に真を語りて、心に真のなきこと」。まず口に真を語り、心にも口にも同じ、うーん、相方にならして頂く事のために、まず真の道に、を知らなければならない。その真の道とは必ず真っ直ぐいというて、一直線の道ではないという事、ね。天地に道があるという道は言わば、こう曲がりくねっておるという事、ある意味においては。それを、また、ね、直情型の人はこれが真っ直ぐだと言うて、田んぼの中まで行きにくいとこ、闇ん中でも分けて行かんような生き方をする。だからそうする生き方が必ず茨の道のような事になってくる。信心は楽じゃとこう仰る。信心は道のある所を辿らしてもろうて、その道を辿らしていただく限り、天地に繋がる大道を喝破するとはそういう事なのであります。だから言うて整うというおかげ、天地の大道を、真の道を歩かして頂いておれば、真のおかげが現れる。ね、いわゆる真の信心さしてもらや真のおかげを真(しん)のおかげを受けられるというところ。そこんところを私は、ね自分の生き方というものを引いたり、足したり、かけたり、割ったりというような、言わば慎重な生き方。しかもそこには楽しみがある。ね、喜びがある。間違いのない生き方をさして頂いておるという心に安らぎが生まれる。そいう生き方をです、楽な、「信心は楽なもの」と仰ったのはそういう事だと、御理解40節から、まあ、ああー、引用して申しましたですね。どうぞ私どもの「口に真を語りつつ 心に真のなきこと」をもう一片検討してみて、自分の言いよる事が間違いがないと思うとる事をもう一遍検討してみて、いわゆる引き足らんなら足してみて間違いがないというところに、ね。答えを出してからの生き方にならして頂く、そういう生き方をです、ね。まあ、今日は頂きました、「ただでする修行、買ってする修行」が相まっていきらなければできん事、できる事ではないというふうに思うのでございます。どうぞ。